Nina Simone[ニーナ シモン]の生涯。第一章 生い立ち。ウェイモン(Waymon)からシモン(Simone)へ

イントロダクション

人の心を動かす音楽を奏でるアーティストはどのように生まれ育ってきたのだろう。幸せな環境?それとも劣悪で苦しい思いをした環境?

2015年にネットフリクスに公開されたニーナシモンのドキュメンタリー映画「ニーナ・シモン 魂の歌」からインタビューを抜粋してみます。

私にとって「自由」とは恐怖心を全く感じないこと。もし人生の半分でも恐れを忘れることができたら、、、

リサ (ニーナシモンの愛娘) の出産後の3時間が、世界がいとおしくて人生でもっとも穏やかだった。

また、同時にこのようにも答えています。

私が一番幸せだと感じることは歌っていて、観客の心を感じることができたとき。

ニーナシモンは、幼少期にクラシックピアノに没頭、マネジャーである夫からDVを受けながらも成功を収め、1960年代後期に入ると人種差別の撤廃に向けた公民権運動に傾倒。その後米国を飛び出しリベリア(西アフリカ)へ移住。しかし、資金が枯渇し、次は欧州を舞台に再起をかけて奮闘していきます。晩年は極度の躁鬱病(双極性障害)に苦しめられながらも。。。

黒人女性として戦い、苦しみ、壮絶な人生を送り続けながら、数々の名盤を発表。その姿は多くの人の心を動かしていきます。今回はHiphopはもちろん黒人音楽を通して世界中に影響を与えたジャズ、ブルースシンガー、ニーナシモンについて掘り下げたいと思います。

第一章では1933年に生まれたユニース・キャスリン・ウェイモン(Eunice Kathleen Waymon) がどのよう過程を経てニーナシモン(Nina Simone)へなったのか、人を形成するときに一番重要な幼少期、少女期について、そして歌い手となった20代前半での様子を掘り下げたいと思います。

幼少期 (0歳-7歳)

本名ユニース・キャスリン・ウェイモン (Eunice Kathleen Waymon)

ニーナシモンことユニース・キャスリン・ウェイモン。彼女は1933年2月21日。彼女はノースカロライナ州のトライオン(Tryon)という小さな町で、世界恐慌(1929)の真っ只中で7人兄弟の6番目として生まれました。

3歳で「音楽」に触れる。

母親は牧師も勤めたこともある熱心なクリスチャン。その母が幼いユニース・ウェイモンを教会に連れていき、そこで初めてピアノに触れました。それは彼女が3-4歳の時のこと。

その時の体験をこう振り返ります。

教会での集会はとっても心が躍る体験だった。音楽が力強くて、みんなの情熱が伝わってきた。私は誰よりも夢中になったの。

初めて音楽に触れたのが教会。そこで小さい身体で誰よりも熱狂し、場をリードしていたのが幼児であるユニース・ウェイモンだったという。

7歳で初コンサート。才能が認められる。

7歳になったユニース・ウェイモン。有名な聖歌隊が地元でコンサートを開くことから、そこで彼女もピアノを弾くことになる。これは貴重な彼女初コンサートのチラシ。ユニース・ウェイモン(Eunice Wamon) によるピアノリサイタルコンサートと記してあります。

1940年9月18日
記念すべきユニース・ウェイモン(ニーナシモン)初コンサート!

プログラムを見る限り以下の曲目が演奏されたという。

主の祈り | アルバート・ヘイ・マロット
The Lord’s Prayer | Malotte

フランス組曲 第4番 | バッハ

French Suite No.4 | Bach
アルマンド

Allemande
サラバンド

Sarabande
メヌエット

Menuetto
ジーグ

Grigue

G線上のアリア | バッハ

Air | Bach
ピアノソナタ Op,2 No.1 | ベートベン

Sonata Opus 2,No.1 | Bach
当時のイメージ (Netflix作成)

コンサート1曲目に演奏したと思われる『主の祈り | アルバート・ヘイ・マロット (A. Malotte : The Lord’s Prayer)』

そこには一番前の席に座るある白人がいたという。

ユニース・ウェイモンの音楽教師となるマゼノーヴィッチ先生。

マゼノーヴィッチ先生はユニース・ウェイモンの母の上司にあたる。彼女に才能を認められ、その後5年間 (7歳から12歳) までクラシックピアノのレッスンを受けることなります。

少女期 (7歳-12歳)

練習曲はクラシックばかり。

ユニース・ウェイモンにとって、初めて親密に交流する白人がマゼノーヴィッチ先生。幼少期の出来事をこのように振り返っています。

私はそれまで白人を見るのがほとんどなかったから、宇宙人をみているようだった。でも彼女の白い髪や明るい性格は大好きだった。

マゼノーヴィッチ先生はユニース・ウェイモンのピアノの才能をいち早く気づき「ユニース・ウェイモン基金」を立ち上げたり、リサイタルを開いて募金を募ったりして、将来のユニース・ウェイモンの学費を集めてくれたという。

マゼノーヴィッチ先生はユニース・ウェイモンが将来、世界的なピアニストになると信じていたのでレッスンではクラシックを徹底的に訓練したという。それは、バッハを中心に、ベートベン、ブラームス、ドビュッシーなど。

黒人と白人のコミュニティの挟間。

マゼノーヴィッチ先生の元へレッスンを受けにいくため、黒人は鉄道を歩いて行く必要がありました。そう、当時の米国南部では黒人隔離政策の真っ只中。黒人と白人ははっきりとした差別化が国・州主導で行われていたのです。

当時のイメージ (Netflix作成)

さらに、1日に8時間の孤独なピアノ練習。まだ当時、白人の楽器であったピアノ。先生も白人。地元の同世代の黒人友人たちとも徐々に距離感が生まれ、黒人社会と白人社会のどちらのコミュニティの中でも孤立化していきます。

後にニーナシモン(Nina Simone)の名曲の数々の基礎であるクラシックピアノ。黒人でありながら、ピアノ練習に費やしたその時間は同年代の子供たちと遊ぶ時間を奪い、自分を塞ぎ込むことにも繋がっていきます。まさに諸刃の剣のだったのです。

12歳のグランドリサイタル

ユニース・ウェイモン12歳の時。初めてのグランドリサイタルのチラシ。

そこで、一つ事件が起こります。12歳の時に教会でグランドリサイタルの機会に恵まれたユニース・ウェイモン。両親が一番前の席に座っていたところ、白人に譲るために後ろの席に移動させられたのです。彼女はそれが許せず、両親を前列に戻すまで演奏を拒否したという。後に公民権運動に傾倒していくきっかけになった大きな事件として言われています。

当時のユニース・ウェイモン。

ティーンエイジャー期 (15歳-20歳)

地元高校へ入学。アッシュビルアレン女子高

マゼノーヴィッチ先生による基金によって学費を得たユニース・ウェイモンはアッシュビル(Asheville)にある高校へ入学することができました。

Allen High School
https://lit-together.org/history-of-our-building/

生まれたトライオン(Tryon)からアッシュビル(Asheville)までは車で10分もかからない距離です。この時はまだ米国南部ノースカロライナ州から出ていない状態です。彼女は地元の高校生活を送り卒業を迎えます。

Eunice Waymon (aka Nina Simone) Allen School for Girls, Asheville, NC. 1950 Photo credit:

初めての大都会ニューヨークへ。ジュリアード音楽院

アッシュビルからニューヨークへ。飛行機で2時間ほど。

高校卒業したユニース・ウェイモンは基金の残りのお金を使ってニューヨークへ。超名門ジュリアード音楽院に入学することになります。ここで1年半ピアノと音楽理論をみっちり勉強します。彼女は米国で初めての黒人クラシックピアニストを目指していたのです。

ジュリアード音楽院 (The Juilliard School)
https://www.juilliard.edu/

ジュリアード在学中は晩年のカール・フリードベルク(Carl Friedberg) [1872-1955]の生徒となり、フィラデルフィアにある名門カーティス音楽院の奨学金入学を目指します。

カール・フリードベルク (Carl Friedberg) [1872-1955]

カーティス音楽院 (The Curtis School)
https://www.curtis.edu/

しかし、試験ではチェルニー、リスト、バッハ、ラフマニノフを完璧に弾けたので合格すると思っていたという。しかし、結果は、、、

Not accepted – 不合格。

後に黒人が理由ということで奨学金選考に落選した知り、彼女は落胆します。
(その年は72人中3名しか合格しなかった。)

人種で差別されたというその時の衝撃は忘れられない。

落胆した彼女は、カーティスの教授であるVladimir Sokoloff (ウラジミール・ソコロフ) とピアノのプライベートレッスンを受けましたが、当時カーティス音楽学校が21歳以上の学生を受け入れていなかったため、再申請することはできませんでした。

21歳 [1954年]

フィラデルフィアへ。そして、アトランティックシティへ。

その後、大都会ニューヨークでの生活資金が尽き学業を続けることができなくなりました。仕方なく彼女は家族と一緒にフィラデルフィアへ行き、写真家のアシスタントをしたり、ピアノを教えたり、スタジオでピアニストをして生活費を稼ぐようになります。そんな中、彼女はより稼ぎの良い仕事として、東部の歓楽都市アトランティックシティーでクラブ専属のピアニストとして働くことになります。

歓楽都市アトランティックシティーでピアニストとして働きはじめる。

当時のアトランティックシティは娼婦なども多い東海岸の街。ニューヨークの超一流音楽院で学んだ若い女性ピアニストが、荒れくれものの多い港町のクラブで働くのはとても勇気がある行動だったと思います。

週 90USDという大金を手放したくなかった。

週90USDという当時の報酬は、現在の物価でいうところの約12倍の価値があります。つまり1080USD (12万円相当)

1954年。21歳の時、ユニース・ウェイモンからニーナシモンへ。

世界恐慌の傷跡が残る中、家族や周囲が自分のためにお金を工面し、学費に全てを投入して一流ピアノ技術を習得してきたユニース・ウェイモン。カーティス音楽院奨学金が不合格になったことで、米国初の黒人クラシックピアニストとしての道が絶たれてしまいました。

音楽だけで食べていくことは、現代においてもとても難しいこと。今までのプライドを捨て、クラブで男のためにドレスを着てピアノを弾くようになったのは家族を養っていくためだとユニース・ウェイモンは言います。

歓楽都市アトランティックシティーのクラブでピアノを弾くユニース・ウェイモン

初日を終えた彼女にクラブの店長はこう言います。

明日も続けたいなら、弾き語りをやってくれ」と。

それまでピアノは弾けても「歌うこと」はしたことがなかったユニース・ウェイモン。それ以降、お客の要望があればどんな曲でも弾いて歌ったという。ポップス、クラシック、黒人霊歌。勤務時間はなんと深夜から朝の7時まで。

しかし、熱心なクリスチャンである母にこのような姿(クラブでドレスを着て、男たちのために歌をうたう)を見せるわけにはいかなかったという。そこで彼女は自分自身に芸名をつけます。

ニーナ(Nina)は女の子という意味

シモン(Simone)はフランス女優シモーヌ・シニョレ(Simone Signoret) からとったという。

フランス女優 シモーヌ・シニョレ(Simone Signoret) [1921-1985]

3歳から学んできたクラシック音楽をベースとし、ポップスやジャズを自分流に置き換えて演奏していた彼女。徐々にニーナシモン(Nina Simone)の人気が出始めてきます。こちらは貴重な当時のフライヤー。

当時のフライヤー。場所はミッドタウンバー。
Midtown Bar & Grill on Pacific Avenue in Atlantic City, New Jersey,

まとめ

いかがでしたでしょうか?第一章 生い立ち。ウェイモン(Waymon)からシモン(Simone)へ。

これは壮絶な人生の幕開けに過ぎません。クラブで弾き語りを強要されてから、歌いだしたニーナシモン。この時、21歳です。

この5年後の1959年。それまでの経験を凝縮させた不朽の名盤 1st Album リトルガールブルー (Little Girl Blue) が発表され、若くして成功を納めることになります。そして、全米を圧巻、欧州や日本にまで波及するほど。第二章は近日公開予定!お楽しみに。

参考文献 :
ニーナ・シモン 〜 魂の歌
ニーナ・シモン自伝―ひとりぼっちの闘い (書籍)


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